hellとゼロ冠詞―the earth/heaven と定冠詞:無冠詞と有冠詞の違い †
以下は『わかりやすい冠詞講義』で学んだ英語冠詞観を『日本人の英語』や『英語の感覚』をベースに―即ち哲学やポストモダンといわれる世界観から―英語冠詞体系を捕えなおす個人的な対話記録です。
- hellとゼロ冠詞―the earth/heaven と定冠詞:無冠詞と有冠詞の違い
- hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/21(Sat) 15:37 <URL> No.3581
- Re: hell と 冠詞 について k.y. - 2007/07/22(Sun) 10:07 <URL> No.3584
- Re: hell と 冠詞 について 奇策な人 - 2007/07/22(Sun) 12:32 No.3585
- Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/22(Sun) 13:43 No.3587
- 奇策な人さんとTakaさんには、明日、返信させてください。御三方ともに、分かり難い質問に答えてくださってありがとうございます。 Gilderoy - 2007/07/22(Sun) 21:02 <URL> No.3588
- Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/23(Mon) 15:35 No.3589
- 補足させていただきます 奇策な人 - 2007/07/23(Mon) 20:29 No.3590
- 投稿制限もあるので、返信は後日。すみません、必ず返信します。 Gilderoy - 2007/07/23(Mon) 22:32 <URL> No.3591
- Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/24(Tue) 12:03 No.3592
- Re: hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/24(Tue) 23:09 <URL> No.3595
- Re: hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/25(Wed) 23:47 <URL> No.3598
- hell と 冠詞 について 2 投稿者:Gilderoy 投稿日:2007/08/02(Thu) 21:25 No.3613
- Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Taka 投稿日:2007/08/03(Fri) 12:43 No.3615
- Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Kiku 投稿日:2007/08/04(Sat) 11:08 No.3617
- Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Taka 投稿日:2007/08/04(Sat) 17:08 No.3622
- Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Gilderoy 投稿日:2007/08/07(Tue) 20:30 No.3629
- Article/Euphemism/Connotation:英語冠詞の使い方を拡張する修辞法
- 英語冠詞体系をポストモダンでイメージ作業
- Comments
hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/21(Sat) 15:37 <URL> No.3581 †
エドガー・アラン・ポーの小説の冒頭についての質問です。下のリンク先で読めます。ショートショートです。
http://etext.library.adelaide.edu.au/p/poe/edgar_allan/p74c/cons4.html
TRUE! --nervous --very, very dreadfully nervous I had been and am; but why will you say that I am mad? The disease had sharpened my senses --not destroyed --not dulled them. Above all was the sense of hearing acute. I heard all things in the heaven and in the earth. I heard many things in hell. How, then, am I mad? Hearken! and observe how healthily --how calmly I can tell you the whole story.
all things in the earth & in the heaven <-> many things in hell
この対比において――
- [1]. heaven/earthには、なぜtheがつくのでしょうか?
- [2]. hellにはなぜtheがつかないのでしょうか?
「===」で囲まれた部分は、僕のHPでも紹介?している『わかりやすい英語冠詞講義 』と『例解 現代英語冠詞事典 』の特に重要な部分は読んでいるということを想定して書かれています。おそらく、読んでいないと意味不明です。読んでいても、援用している僕自身が理解しきれていないので、意味不明かもしれません……。
ですので、「==」で囲まれている過程は無視して、その下のポーの"THE TELL-TALE HEART"に直結する部分だけでも、読んでいただければ幸いです。
お邪魔でしたら、一週間ほどで削除し、続きは僕のHPの方に掲載して終わりとさせていただきます。
また、「=」内の見出し数字は、冒頭の問いの数字に緩やかに対応しています。帰納的で、分かり難い流れだと思います……。
===============
僕の解釈としては――
- [2]-1. hellは、そもそも神の子である人間には感じることができない形而上的な概念である。ゆえに、同定をすることはできない。つまりは、感じられる意味などなく、ただの符牒にしかすぎない。〈形而上的〉
- [2]-2. また、「同定できない」と話者が期待すること自体が、裏の意味で同定を読者となされることになり、そこに「いやらしさ」を感じる。
- [1]-1. hellが同定不可能な論理的抽象概念であるのなら――
- [1]-1-1. 対比されているheaven/earthは、形而下で感じられる具体性を伴うものである。〈形而下的〉
もしくは - [1]-1-2. 対比されているheaven/earthも、形而上の概念ではあり、抽象的ではあるが、同定が可能であり、共通理解ができる「意味」がある。〈形而上的〉
- [1]-1-1. 対比されているheaven/earthは、形而下で感じられる具体性を伴うものである。〈形而下的〉
ネイティブの答えとして――
- [2]-1. .heaven/earth は一つしかないから、この2つにはtheがつく。他方、hellにtheがつくのは変。
というのがあります。
これへの追加質問としては――
- [2]-1. heaven/earthに関して――
- [2]-1-1. 「ひとつしかない」というのは「moonがひとつしかない」というレベルの話であるのか?つまり、"the earth"で同定される意味は「形而上的な抽象概念」なのか「形而下的な具体的な何か」なのか、ということです。
なぜ、形而上(抽象)か形而下(具体)であるかにこだわるのかと言えば――
- [2]-1-2. heaven/earth/hellは同列の抽象概念として語られているのか、それとも「heaven/earth」対「hell」であり、「具体」対「抽象」で対比されているのか知りたいからです。
さらに、これへの答えを想定します――
- [2]-1-1. the で同定される時点で既に意味として「完結」している。ゆえに、the heaven/earth は形而下における具体的な意味をもっている。
- [2]-1-2. よって「具体」対「抽象」もしくは「形而下」対「形而上」(本能vs理性or感覚vs論理)という対比がなされている。
また、具体&抽象という言葉だけではなく、形而上&形而下という言葉も使うのは、これらの単語に付随する意味が英語圏(もしくはキリスト教圏)の文化に深く関わっていると感じられるからです。さらに、「抽象」「具体」「形而上」「形而下」の組み合わせ方にも気になるところがありますが、それは次の質問で補足します。
さらにもう一度、これに質問します――
- [2]-1-1. 「the で同定される」と意味が「完結」することは理解できる。でも、「完結」即ち「形而下的(具体的)」としていいのでしょうか?
英語の感覚というのは「形而上的で論理的な概念」を『他者』と「同定」することはできない。という、文化なのでしょうか?
僕には、むしろ、西洋哲学の発達ゆえに「抽象的なもの」を「形而上的な概念」のままに「完結させる」――たとえば、a school を the school にするだけではなく、 go to school で示されるような「 school という『機能』」というか「符牒」を、≪「意味を持たない」レベルでメタ的に意味を持たせる≫ことができなければ形而上的なことを語ることができないように思われます。
つまり、無冠詞でしめされる「未完結」な抽象概念を、≪「未完結」のまま「完結させる」≫というメタ的な「同定」は不可能なのでしょうか?
『私』にとって無冠詞が「未完結」で、不定冠詞が「完結」で、複数形が「完結以上」という『環』を形成しているのならば、『他者』を想定する定冠詞という「同定」は、『環』の各地点において、メタ的に、外部から、機能するとした方が言語として論理的だし便利なのではないでしょうか?
この「完結性と同定」の関係を、<「抽象」「具体」「形而上」「形而下」>の方へスライドさせます。
- A. 無冠詞に定冠詞がつく場合
- hell=未完結=「形而上空間における抽象的概念」という意味を持たない記号としての符牒(機能)
- the hell=未完結のまま完結&同定=<「形而上空間における抽象的概念」という具体的(or同定可能)な符牒(機能)>という意味をもつ
- B. 不定冠詞に定冠詞がつく場合
- a hell =完結=形而下空間における具体的な意味をもつ
- the hell=完結&同定=「形而下空間における具体的な意味をもつ」という具体的(or同定可能)な意味をもつ
まとめると――
1. 「冠詞がある―冠詞がない」という二項対立的なパラダイムではなく、「同定」という『私』と『他者』の「つながり」を軸にするパラダイムで冠詞を理解することは可能か?
2. 具体的には、『私』だけの意味である「無冠詞」・「不定冠詞」・「複数形」に付随する「意味のない符牒という論理」や「意味のある言葉という感覚」を、『他者』と共有するために「定冠詞」をつけて両者にとってメタ的に「共有可能」な意味にする――と、いうような理解は可能か?(結果、不定冠詞は定冠詞と取り替えることになる)
==========
定冠詞がないということは同定が不可能であるはず。実際、話者はイカレてない(と、主張している)し、読者だってイカレてない(と、話者は暗に断定っつーか遠回しに脅迫的な強要をしている)。つまり、hellとは何か両者ともに知るよしもない。
他方、読者も話者も正常で清廉であるのならば、heavenもearthも知っているはず。つまり、同定可能。
結局、「地獄のもの(のようなもの)」って意味だと僕は解釈しました。そういった意味では、「無冠詞での共犯関係」ってやつかもしれません。
定冠詞には、文書の冒頭において「後方照応」であるはずなのだけれども、結局、照応内容は説明されず、事実上、「外界照応」的になる修辞用法があるそうです。
つまり、読者を話に引き込むためのテクニックということです。
せっかく、話が進み始めたのに「おい、さっきの後方照応の説明が無いぞ!」なんて無粋なことを言ったら話の腰が折れちゃう。だから、たとえ照応不可能でも「黙っていてあげる」――「共犯者」になってあげるってレトリックらしいです。
この「共犯関係」を暗に強要しているのが「無冠詞でのhell」ではないか、と解釈しました。
日本語にすると――
「ほら、天国とか地上の音色は君にも僕にもよぉ~っく聞こえるよね。地獄はさ、どんな音色なのか、僕のように正常な人間には想像も及ばないけど、とりあえずはヒドイもんなんだろうね(そりゃぁ、君だって正常なんだから、僕と君とで想像しているものが、形而上の概念であれ、同じである必要はないわけだけど……でも、分かるだろ?)」
みたいな、ニュアンスで僕は解釈してみました。だから、「敢えて同定を期待しない」ところに、「押しつけがましさ」が感じられ、「共犯関係」を強いられてしまっている感じがするので、いやらしい話し方に思えます。
でも、manyがついているのだから、話者は「地獄に片足ぐらいは突っ込んでいる」から「僕には聞こえる部分もある。だけど、君には聞こえない。ゆえに同定不可能」って流れかもしれません。(後日談的な語り口からも、想像できるような気がします)
キリスト教的には「原罪」ってのがあるんだし、そういう意味で「君にも聞こえているはずだろうけど、イノセントな君に聞こえているわけないよね。だから同定できないはず」みたいな遠回しかもしれません。
Re: hell と 冠詞 について k.y. - 2007/07/22(Sun) 10:07 <URL> No.3584 †
私見です:
A: まず、語源を確認しておきます。
heaven は 「heofon = おおうもの」、earth は「eorthe =(陸)地」、hell は「hel(l) = おおいかくされた場所」という、いずれも古英語に由来する語彙です。
B; 次に、(旧約)聖書の「1:創世記 / 1章 1節 」を見てみましょう。
① 日本語・口語訳 : 「はじめに神は天と地とを創造された」
② 英訳(文語 King James Version): 「 In the beginning God created the heaven and the earth 」
③ 英訳(口語 New International Version): 「 In the beginning God created the heavens and the earth 」
③ の the heavens とは「空」のことですが ② の文語体では the heaven と単数形になっています。いずれも目に見える「空 = 天」を表しています。
なぜ、heaven と earth に the がつくのかと言えば heaven も earth もまさに目に見える具象の「天=空」と「(陸)地」を指す語彙だからです。
周知のごとく― 聖書では「具象の世界=天と地=全世界=全宇宙」は God が創造したことになっています。religious antiscience の立場ですね。
念のため、③ の the heavens = ② の the heaven は単に「空 = the sky 」のことで「天国」という意味はありません。「天国」を意味する場合は、通常 ― hell の場合と同様 ― 無冠詞の heaven で表現します。
エドガー・アラン・ポーは ① と同様に in the heaven and in the earth と書いたわけでしょう。
他方、Aで述べましたように、hell は本来「覆い隠された場所」すなわち「架空の場所」を意味する語彙で、目には見えない抽象の産物であり、具象である heaven や erath と違って単独で the hell と記述されることはありません。ただし、There is a hell in Buddhism as well. とか the hell of incessant suffering とかの表現があることはご承知の通りです。
(新約)聖書でも「地獄」を意味する hell (or Hell) はやはり目に見える具象の場所ではないために単独で the hell と記述されることはありません。the hell beneath という表現はありますが beneath(地下の)という場所を特定する形容詞がついています。
イエスの教えに特徴的な「地獄 = hell = 悪事を行う者たちが罰を受ける所という架空の場所」が設定された背景には、古代の人たちの ― いくら悪事をはたらいても現世で報いを受けているようには見えない多くの人たちに対して抱いた「さばきはいつどこで行われるのか」という重大な疑問 ― があったようです。
そうした意味では、hell は「場所」であると共に「裁きの機能」でもあり、Gilderoy さんご指摘の go to school の school の役割を無冠詞の hell が果たしているとも言えるでしょう。
なお、上記でエドガー・アラン・ポーがいう hell は「キリストのいう地獄」に限らず「地獄のようなところ」と解してよいのは当然でしょう。
Thank you.
Re: hell と 冠詞 について 奇策な人 - 2007/07/22(Sun) 12:32 No.3585 †
あくまで直感的な判断です。
① heaven : 目指すべき所のニュアンスがあり、特定されて the が付く。 ② earth : 住んでいる世界なので、特定されて the が付く。 ③ hell : どうなっているかわからない所のニュアンスがあり、また抽象的な概念のため無冠詞になる。
k.y. さんのように語源を洞察したわけでありませんが、考え方に多少共通点があるかもしれません。
Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/22(Sun) 13:43 No.3587 †
Gilderoyさん、面白い問題提起と考察ありがとう御座いました。k.y.さん、奇策な人さんの解説も勉強になります。
愚問かもしれないのですが、ちょっと質問があります。問題文の文中での役割についてです。
問題の文、
I heard all things in the heaven and in the earth. I heard many things in hell.
は前述の
Above all was the sense of hearing acute.
を説明するための「比喩」ととっていいでしょうか。文字通り天国や地獄の出来事が聞こえるというのではなく「いい事から身の周りのこと、そして悪い事まで全て敏感に聞こえた」ぐらいに考えても無理はないでしょうか。
それとも、文字通り、天国や地獄の出来事が敏感に聞こえると取るべきでしょうか。そうなると、この主人公が実はmadであると暗示しているような響きになると思います。
考えすぎなのかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
追記 上記の私の質問がらみでさらにお伺いしたい事があります。
heaven,earth, hellを調べてみました。それぞれ、具象、抽象の両方の意味があります。heavenですと、①(文字通りの)天国 ②天国のような物(抽象)ということになります。
この場合のthe heavenは 具象でしょうか、それとも抽象でしょうか。具象であるなら、あとの抽象のhellと同列にならないようにも感じます。
なんだか複雑になってきたみたいですみません。
奇策な人さんとTakaさんには、明日、返信させてください。御三方ともに、分かり難い質問に答えてくださってありがとうございます。 Gilderoy - 2007/07/22(Sun) 21:02 <URL> No.3588 †
まず、言葉のニュアンスなのですが、 1.具象=形而上空間で限定された形をもつもの≒具体的 2.具体=形而下空間で限定された形をもつもの≒具体的 と、いうことにしてください、一応ですが。特に大きな違いはありません。
「形而上の抽象的な概念に冠詞がつく」と限定されて意味が発生し、完結したりする――というのが、よく理解できなかったので、形而上的か否かは僕の中で重要なようです。
一応、k.y.さんや奇策な人さんやTakaさんの返信を読んで、自分なりに答えが出ました。
要は、ポストモダン的な「差異の戯れ」というか「差異の体系」として理解できるわけですね。ソシュールの記号論がポストモダンならば、英語という言語も、現状では既にポストモダン的な解釈が行われているはずで、その集大成のいくつかが『冠詞講義』や『事典』であった、と。
k.y.さんへ
なぜ、heaven と earth に the がつくのかと言えば heaven も earth もまさに目に見える具象の「天=空」と「(陸)地」を指す語彙だからです。
なるほど。heaven は元来、「天=空」のような具象なんですね。「空」というイメージはあっても、「別次元」にあるような気がするのは、僕が日本の文化や宗教感に影響されているからかもしれません
または、宗教を近代的なパラダイムで見ていたんでしょう。宗教には形而上という「理性・精神」と形而下という「本能・肉体」というような二元論は無く、神という一元論。それゆえに、heaven/earth という、現在では形而上の概念でしか過ぎないものが、「形而下的なものを内包した形而上概念」もしくは「唯一絶対のオリジン」として定冠詞で同定されるのかもしれません。
(オフトピ:そう考えると、西洋のオリエンタリズムへの憧憬は引き裂かれた精神と肉体を「タオ」という混沌で一元化できるところに理由があるのかもしれませんね。)
もしくは、近代的で形而上的な「空」という機能――つまりは heaven という符牒を「キリスト教という形而上枠で限定する」から、相対的に意味が発生して、the heaven となる、でもいけるかもしれません。
つまり、近代的な二元論を前提とすると、キリスト教的なパラダイムで、heavenは形而上的であると共に形而下的でもある。形而下に属するのならばmoonと同じ物質であり、the heaven という具体的(具象的)な意味をもっても問題ない。
他方、科学的なパラダイムで考えれば、形而上のheavenのなかでも、「キリスト教的」という「限定」が行なわれるため、the heaven という具象的な意味が発生する、と。
こう解釈すれば、<形而上的な抽象的概念が、冠詞によって具象性というような「形」をもつ>というのが理解できます。
周知のごとく― 聖書では「具象の世界=天と地=全世界=全宇宙」は God が創造したことになっています。religious antiscience の立場ですね。
はい、"Intelligent Design"とかも、その系譜ですよね。
他方、Aで述べましたように、hell は本来「覆い隠された場所」すなわち「架空の場所」を意味する語彙で、目には見えない抽象の産物であり、具象である heaven や earth と違って単独で the hell と記述されることはありません。ただし、There is a hell in Buddhism as well とか the hell of incessant suffering とかの表現があることはご承知の通りです。
この2つの例外(?)は、『冠詞講義』とかピーターセンが言うような、「特別」なものであり、指示範囲を「限定」し「差別化」するための冠詞ってことなんだと理解しています。
(新約)聖書でも「地獄」を意味する hell (or Hell) はやはり目に見える具象の場所ではないために単独で the hell と記述されることはありません。the hell beneath という表現はありますが beneath(地下の)という場所を特定する形容詞がついています。
「hell」という記号に「beneath」という「限定」、もしくは形而下的な具体性(or具象性)を与えることで意味が発生し、尚且つ同定が可能。と、解釈しました。
イエスの教えに特徴的な「地獄 = hell = 悪事を行う者たちが罰を受ける所という架空の場所」が設定された背景には、古代の人たちの ― いくら悪事をはたらいても現世で報いを受けているようには見えない多くの人たちに対して抱いた「さばきはいつどこで行われるのか」という重大な疑問 ― があったようです。
まぁ、弱者のルサンチマンも巧く扱えば『わかりやすい英語冠詞講義』が産まれるようですよ。(笑
そうした意味では、hell は「場所」であると共に「裁きの機能」でもあり、Gilderoy さんご指摘の go to school の school の役割を無冠詞の hell が果たしているとも言えるでしょう。
そうすると、<キリスト教的な意味で使われる「抽象的なhell」に、形而上の抽象概念のままで the を付ける>もしくは<schoolという「機能」自体に「文脈の外」から絶対的にtheをつけて同定する>という考え方は、筋が良くないですね。
むしろ、k.y.さんが示してくれた例文や『冠詞講義』のように「別のhell(や機能)」との「差別化」の段階で、比較するために、結果として冠詞がつく。言いかえれば、相対的というか「対」として、「文脈の中」で「特定の具象的なもの」として具象性を得る、という流れである、と。
結局、『冠詞講義』と『事典』に戻ってきましたか……。
「無冠詞=抽象=機能=未完結」は、「意味を持たない記号」としての「符牒」とする『事典』の解釈が、やっぱり大軸で、「符牒」に the をつけて「文脈の外から」「メタ的に」「意味をもたせて」「未完結として完結させる」ってのは、ちょっと違うようですね。
むしろ、「形而上か形而下か」というような抽象度(論理と感覚のグラデーション)は特に重要ではない。
a-1-a. 形而上においては、元の「抽象」という「記号」の一部を別の「抽象」という「記号」として「差別化」することにより、「相対的」に「具象的な意味」が発生するので、「限定」するために冠詞がつく。
(その時、意味が「絶対的」に形而上的であるか形而下的であるかは、不明。たぶん、文脈依存。形而上的なものが形而下的なものとして認識される場合があるのかは英語とはあまり関係無いような気もする。そもそも、こういう筋の悪い(と思われるw)発想は「絶対的」というか二項対立的であり、「差異の体系」である言語に合わないんだろう。)
a-1-b. 形而下においては、元の「具体的なもの」の一部を<別の「具体的なもの」>として意味を「差別化」するために冠詞がつく。 a-2. で、そのあとに、「差異」の「限定」だけなら不定冠詞(or 複数形)。さらに同定する必要があれば定冠詞。
つまり―― 1.抽象的な無冠詞の単語は、本来、「符牒」という記号であり、(形而下的な)意味・具象性を持たない。 2.そこに差異が必要な時に、不定冠詞がつき、相対的に具象的(=意味を持った言葉)になる。 3.結果として、「オリジナルの符牒」は『他者』という前提になり、不定冠詞がついた<「オリジナルの符牒」のコピー>は≪私≫という≪別のオリジナル≫になる。 4.で、さらに定冠詞で「話者」と「読者」で同定できるか否か判定する、と。 5.要は、冠詞ってのは「差異の体系」であり、「他者」との対話を「私」がどのように認識するのか表れているわけですね。
これなら『講義』や『事典』での説明に適合しますね。(多分……
実は、「キリスト教で言う『無冠詞のhell』に定冠詞がつくか」という疑問は、英作において、無冠詞の単語と関係詞や前置詞での修飾をどう理解するべきか、という問題から発生しました。それを一般化して、「メタ的に定冠詞が働くのでは」と、考えました。
これはむしろ、「無冠詞」≒「固有名詞」と考えたほうがいいみたいですね。固有名詞に関係詞や前置詞がつくことは、ほとんどないだろうし。ついたとしても、修飾語もひっくるめて「符牒」として記号化すんでしょうね。(で、相対的に意味をもつ)
だから、「A of B which C」みたいな型で先行詞がAともBとも解釈できそうな場合は「A of B」でお茶を濁すというか、そもそも「意味」なんてないから、「かたまり」で理解して問題ないのかもしれません。
そうなれば、「同定を敢えて期待しないところが、逆にいやらしい」というような「意味」を「hell」という「符牒」に読むのは違うっぽいなぁ……。こういう、「空気を読む」というか、「言語外のホノメカシ」を感じる辺りは日本語的感覚なのかもしれません。英語はもっと個人主義でサッパリしてますね。(多分^^;
と、いうわけで「定冠詞の有無で抽象度(完結度)のレベルがメタ的に・絶対的に変動する」という僕の理解はボツですね。(苦笑
定冠詞だけ外側に置くというよりは―― 1.まず、「話者」のなかでの「相対的」な「差異の体系」として「無冠詞―不定冠詞―複数形」がある 2.それを「読者」と共有できるか否かで定冠詞で「同定」するか判断される。 3.同定されたとしても、「絶対的」な「意味」や「符牒」として、抽象度は具象性(形而下)の方向へ変化はしない。 4.なぜなら、「同定」というステップは「話者」の中での「差異」に注目する行為ではなく、「話者」と「読者」との「差異」に注目する行為であるのだから、「話者」の中での「差異」は既に固定されていなければならない。
Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/23(Mon) 15:35 No.3589 †
すみません、上の私の愚問ですが、撤回させてください。
「天上、地上、地獄の事柄も聞こえた。」と考えれば問題ない、と再度読んで思いました。いろんな事を考えすぎていたようです。 ですので、Gilderoyさん、返信は心配しないでください。
補足させていただきます 奇策な人 - 2007/07/23(Mon) 20:29 No.3590 †
その後、偶然に次の例文を見つけました。
Imagination can give us heaven. It can also give us hell. ( 想像力はわれわれに天国を与えることができる。それはまたわれわれに地獄を与えることもできる )
ここでは、heaven,hell ともに無冠詞です。 思いますに、両方ともに「天国的な状況」「地獄的な状況」のように状況を示し、これは言わば抽象概念ですから無冠詞となると考えました。
Gilderoy さんが例示された「in hell」のin は状況を意味し、一方、in the earth,in the heaven,in the world などの in は場所を意味するので、the が付与されるとする考え方はいかがでしょうか。
尚、上の出典では直訳になっていますが、以上のことを勘案すると「想像力によってわれわれの心持ちは、天国になることも、地獄になることもある」くらいの意訳が考えられると思います。
投稿制限もあるので、返信は後日。すみません、必ず返信します。 Gilderoy - 2007/07/23(Mon) 22:32 <URL> No.3591 †
ポーの文への直接的答えは最後にlistup 奇策な人さん,Takaさん、補足、有難うございます。冠詞のイメージを掴むのに、すごく役立ちます
結論から言えば、<「無冠詞」の状態を全ての前提>と考えます。近代のニヒリズムから、で。
最初に問題整理―― 1. 言葉が表せる事象を「形而上・形而下」・「抽象・具体」の二軸四要素で分類すると四分割表ができる。 2. 形而上で、「天国(heaven)」が抽象的なのは分かりやすい。「学校(school)」という機関が抽象的な機能を表すのも分かる。でも、具象的(具体的)「天国(a heaven)」ってなんだ?具象的な機能としての「学校(a school)」ってどんなものなんだ? 3. 形而下で、具体的な「鶏(a chicken)」から、抽象的な「鶏肉(chicken)」へと移行するとき、「鶏肉」は形而下的な「物質」というよりは形而上的な「性質」を表す場合だってあるよな? 4. パターンを網羅するならば、無冠詞に"the"がつく場合と不定冠詞(複数形)に"the"がつく場合があるはず。どうやって判別するのか? 5. 以上のような、冠詞の有無によって微妙に侵犯される「区切り」などを、もっと明確にするにはどうしたらいいのだろう。
本題―― まず、僕らは『私』という存在をあたりまえの「前提」としている。「我思う故に我あり」ってやつ。英語にスライドさせれば、僕だけの勝手な感覚かもしれないけれど、「無冠詞」という「形(実存)を感じられない状態」は異常というか例外に感じる。これは、受験英語という規範文法(でいいのかな?)が近代的なパラダイムに毒されているということになるのかもしれない。(だから、この感覚は僕だけの特殊なものではなく、ある程度の普遍性があるような気がします)もし、そうならば、ポストモダン的な解釈を行なえば、冠詞における『私』という「主体性」も消失するはずだ。
だから、「冠詞」が保証する形而下での「形」―『私』という「実存」―を前提にするのではなく、「無冠詞」という形而上での観念―「無」という機能(意味を持たない符牒)―を前提にする。もっと正確に言えば、「存在と無」は不可分であるということを暴けばいい。
そのためには「抽象―具体」(「無冠詞―冠詞」)という二項対立を脱構築する必要がある。つまり、「形而上―形而下」という両空間の線引きが自己矛盾していることを引き出し、内部崩壊させる。
ある意味で、冠詞の始まりは宗教という一元論であった。近代になり、二元論として形而上と形而下に分裂させられた。で、ポストモダン的には「実在すると前提されている形而下空間」は、「形而上的なものに内包された形而下空間」である。だから、実在という前提は保証されていない。ゆえに、「観念―実在」(「形而上―形而下」「無冠詞―冠詞」)という二項対立は成り立たず、脱構築される。(証明略w)
これで、「無冠詞は抽象的な形而上概念で、冠詞があると具体的な形而下の物である」という構造が壊れる。そうすると、「冠詞」は形而上・形而下という両方の空間を自由に行き来できるわけです。
これが、僕やTakaさんが疑問に思った「抽象・具象」・「形而上・形而下」という「四要素の組み合わせ問題」に繋がります。自由に行き来ができるってのは、「形而下方向に意味が変化しない(or 主体性を獲得しない)」ということであり、両空間において「<上下>ではなく、<左右>への働きをする」ことになります。つまりは、「差異」を生じさせるという「相対的」な働きだけです。記号に「主体的な意味」を「文脈の外部」から「絶対的」に付加することはしません。
ソシュールっぽく言えば、シニフィアンの数だけシニフィエがあり、任意の「抽象」がシニフィアンによって「分節化」される瞬間に、「冠詞」が必要になる。シニフィエという「具象的」な「かたち」は、任意の抽象体系に属するシニフィアンがもつ弁別的差異によって、体系内もしくは、メタ的に、体系外との「関係性」の中で恣意的に決定される。
言いかえれば、体系内とは、「話者」の中で「記号」を「分節化」し、「話者の意味」を発生させる行為。体系外とは、「話者」と「他者」との関係性の中で「記号」に「共通(と、話者が想定する)の意味」を発生させる行為。
そういうわけだから、ポストモダン的な冠詞理解においては、「四要素の組み合わせ」は大した問題なんかじゃないってことになる。むしろ、こういった要素還元主義的アプローチの集大成は『事典』のような「原則」による分類になるんだと思います。他方、『講義』のように文脈による「差異」に注目するアプローチの方が、より直接的にポストモダン的である、と。もちろん、『事典』の「符牒」という説明もかなり大事ですけど。
ポストモダン状況では、言葉という記号は<ありのまま>という実在を表せない。『私』の主体性も失われ、『他者』という「実存」もまた『私』のなかにいる「記号」にしかすぎない。ならば、『私』という固有――そんなオリジナルという唯物論的な実在は形而下に存在してなんかいない。そういう形而上的な観念論の地点から眺めれば「意味が無い」ということは「無冠詞」であり、形而上の「機能」にしかすぎない符牒という記号になる。
だからこそ、"chicken"からは"a chicken"という「固有」の「実存」が失われ、「鶏肉」という「組成レベル」の「機能」にまで「還元」される。つまり、どの"chicken"も代替可能なオルタナティブであり、オリジナルなど何処にもないコピーのコピーにすぎない肉片になる。
また、"go to school" の "school" は形而上的に機能を示す「記号」にすぎず、「意味という存在」の無いモノ―形而下的に感じられないモノ―となる。あるのは、観念という形而上の認識にしかすぎない「符牒」である。
人も鳥も空も神でさえも、「無冠詞」という形而上的な認識空間では等価に交換可能な記号に過ぎない戯れ―無意味―である。また、「形而下」という実在論的な物質世界は幻想に過ぎず、ただの形而上での認識でしかないとしても問題ない。どうせ言葉という記号では、形而下に実在する「認識の外にあるオリジン」という<ありのまま>を決して扱うことはできないのだから。いわば、『マトリックス』に囚われているのと同じである。囚われている者達に主体性はなし、違いも無いのだから対話もない。
そんなシミュラークルに亀裂をいれるのは、オラクルという神託なんかではなく、『私』の「自由意志」であり「不定冠詞(複数形)」である。それこそが『私』の実存を認識論的に「創造」することになる。さらに、そこに『他者性』を回復させようとする「対話」が「定冠詞」である、と。だからこそ、冠詞は「差異を作り出す体系」である、と。
宇宙論っぽく言えば、無冠詞は宇宙の始まりという「無」であり「ゼロ点振動」という存在。冠詞がビッグバンで振幅が「相対的」に<「無」とは言えないほどに増幅され存在>という「かたち」が産まれるってかんじかな?
量子論っぽく言えば、存在を確定させるための「相互観測」ってのが「冠詞」であるってかんじですか?
で、四要素の組み合わせ問題ですけど――
- 0. 無冠詞のheaven/earth/hellに意味は無い。ただの記号であり符牒。(定性的とか機能ってこと)
- 1. 冠詞が付く瞬間の hell を形而上と話者が認識するなら a hell も the hell も具象的な意味をもつ(抽象的な<かたち>をもつ)
- 2. 冠詞が付く瞬間の earth を形而下と話者が認識するなら an earth も the earth も具体的な意味をもつ(具体的な<かたち>をもつ)
- 3. 冠詞が付く瞬間の heaven を形而上かつ形而下と話者が認識するなら a heaven も the heaven も具象的かつ具体的な意味をもつ(抽象的かつ具体的な<かたち>をもつ)
*「冠詞が付く瞬間の」ってのは、要は「元の記号」からの「分節化」を終えて、意味を持つ瞬間ってことです。 - 4. the hell/the earth/the heaven を、話者がどのような空間で同定を期待しているのか解釈するのは「読者」の自由でもある。
- 5. schoolに関しても、全く同じように考える。
- 6. こうなると、「無冠詞の単語にtheがつく」と考えるのは間違いである。意味の無い「無冠詞」の単語に「定冠詞」は付かない。<「意味が無い」という意味をもたせる>のではなく、「意味がある」から「定冠詞」がつく。(そう言えば事典にもφで無冠詞だったな…)
- 7. つまり、冠詞は二つ以上つかない。敢えて言うのなら、"school"には「無冠詞」という「冠詞」がついている、と。
だから、僕が考えたような「未完結のまま完結させる」って「独立的」で「主体性」のある考え方は違いますね。
むしろ、「未完結の一部を切り取って完結させる」とした方がいい。これなら、独立して考えれば、依然として未完結の概念であることに変わりは無い。それと同時に、「切り取る」という「分節化」により「差異」が発生し、相対的に完結し、主体的でない相対的な意味をもつ。
そもそも、「未完結」という「無冠詞」が表す「抽象」は、<存在していない>。文字通り「無い」のであり、<「『無い』ということで在る」ことすらできない>「ゼロ地点」であり、「差異化」の基点である、と。
そうなると、四分割表というよりは、「抽象」の部分を「形而上」と「形而下」では一つにして、三分割表にするのがいいかも。これですっきり解決?
Re: hell と 冠詞 について Taka - 2007/07/24(Tue) 12:03 No.3592 †
奇策な人さんへ コメント読ませていただきました。多分、私も奇策な人さんと同じような思考経路をたどって、納得できたのだと思います。
the heavenをどう取るかで悩みました。具象だろうけど、全くの具象・「空」とは違うだろうと思いました。それは、後の抽象概念であるhellと同列に考えるべきだと考えたからです。
このポーの作品は他の部分でもそうなのですが、前後二つの文が対を成す箇所が随所に見られます。ですから、the heavenとhellは対をなしているはずだと思いました。で、いろいろあがいて、最終的に「天上」という言葉に行き当ったのですが、この語は単なる具象(形而下・Gilderoyさんの言では)の「空」だけでなく抽象概念をも含んでいると思いました。この「天上」の概念を当てはめれば後の抽象的hellとも矛盾しないのではないか、と感じたんです。
ところで、後で冷静に皆さんのコメント読んで見るとk.y.さんが「天」を使っていらっしゃいましたね。
heavenは「天国 or 天国のようなもの」、the heavenは「天上」と考えることで一応私の中では納得したわけです。
Re: hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/24(Tue) 23:09 <URL> No.3595 †
奇策な人さんとTakaさんへの返信は、二・三日後になると思います……。
現状だと、「無冠詞―冠詞」を「無意味―意味」に対応させて話を進めていますが、不定冠詞と定冠詞の違いを説明できていません。
これを説明できれば、Takaさんが書いてくださったような「the heaven」が抽象か具象か―僕の説明に当てはめれば、「φheaven」か「a heaven」か―という問題を解釈することができます。また、形而上であるか形而下であるか、抽象であるか具体であるか、というような要素は、最終段階の解釈で判断を下すだけのものとなります。
つまり、これらの「意味解釈」は二次的か三次的な問題で、英語という言語体系の構造を把握するには「無冠詞」という「無意味」を雛型(プロトタイプ)とする「差異」の連鎖をイメージするのが一次的問題になると思います。結果、単語自体に「意味」があるのではなく、「プロトタイプ」となる単語と≪派生≫した単語との間に生じる≪差異≫にある。
と、まぁ、普通のポストモダン的な解釈になるようです。たぶん長くなるので、詳細は明日にでも投稿したいと思います。
一応、[the heaven]が"φheaven"・"a heaven"・"heavens"・"the heaven"・"the heavens"の5パターンから≪派生≫した意味として「話者」と「読者」の間で「同定」される可能性が冠詞という体系上ではある、という話になると思います。言語が思考を規定するのならば、一元論も二元論も多元論も表現できるはずです。
僕の形而上の抽象的なものを形而上の概念のままで、英語というフレームワークで英語文化圏の文脈に則って、表現したい、という願いも実現できそうです(笑
もちろん、僕が考えた新説などでは決して無く、すべて『講義』や『事典』で説明された内容から外れてはいないはずです。これらの本は既にポストモダン的な観点が多分に含まれています。ただ、僕がこれらを読んだのは大分前で、気づけなかっただけのようです。手元にもノートへのまとめしか残っていないので、もしかしたら歪んだ解釈になっているかもしれません。
ですから、僕自身の『講義』や『事典』というテクストへの「解釈のやり直し」ということになります。ポストモダンのフレームワークはそれなりに理解しているつもりなので、大ファールということにはならないと思います。
帰納的で冗長な投稿をわざわざ読んで、返信までして下さったk.y.さん、奇策な人さん、Takaさんには、心から感謝しています。なるべく、演繹的な説明になるよう、がんばります。^^;
Re: hell と 冠詞 について Gilderoy - 2007/07/25(Wed) 23:47 <URL> No.3598 †
1.[the heaven] の「元」が5つのどれであったか考えるのは意味が無い。 2."φheaven"について語りたければ"a heaven", "heavens","the heaven","the heavens"の内のどれかを、文脈に沿ってに使えばいい。 3. 「無冠詞」はどんな概念にも属さない超越的な「無意味」で、あらゆる存在の前提であり、「対」であり「影」。形而上にも、形而下にも、抽象にも、具体にも属さない。されど、存在という「意味」がこれらの四つのいずれかに属するがゆえに、どこにでも「遍在」する。これが、「無冠詞」という「無意味」の「揺らぎ」の正体。
以上終了。
ポーの解釈は、僕自身は、k.y.さんの解釈が面白くて好きです。奇策な人さんの解釈は僕のに近かったです。Takaさんのは、どのような違いなのか、僕には理解できませんが、まぁ、特に意味なんてないんでしょう。それはそれで、僕の宗教感に近いです。(クリスチャンじゃないので)もし、意味があったとしても、それはTakaさんの解釈であり、テクストからどんな物語を解釈しようが、読者の自由でもあります。ただ、hellに関しては「無意味」だということです。
一応、僕自身の中では、冠詞については、わかりたいことは全部、分かったので、これで解決です。
あと、また例の如くダラダラと書いたものがあります。僕が冠詞のイメージを掴む過程のものなので、冒頭の結論と矛盾する部分もあります。その辺は、イメージ化のための方便というか、手段に過ぎないので、スルーしてください。
続きます――
hell と 冠詞 について 2 投稿者:Gilderoy 投稿日:2007/08/02(Thu) 21:25 No.3613 †
続き――
http://d.hatena.ne.jp/nash-bridges/20070727 に纏めました。とりあえずは「BBSのまとめ」と見出し「0/20/21」だけでも読んでいただければ、前のスレッドで僕が何を考えていたのか少しは分かっていただけると思います。あと、返信です。遅くなってすみません。
奇策な人さんへ
ところで、初めまして。いろんな人が参加してくれるとBBSが活気づいて楽しいです。
① heaven : 目指すべき所のニュアンスがあり、特定されて the が付く。
② earth : 住んでいる世界なので、特定されて the が付く。
③ hell : どうなっているかわからない所のニュアンスがあり、また抽象的な概念のため無冠詞になる。
「特定」という言葉には、「真っ白いキャンパスにポツンと黒点がある」イメージがあります。そう考えると、「黒点の外側の<白さ>は黒点が特定されることによって、特定されてしまう」とも言えます。
つまり、メタ的に考えると「<「わからない」といことは分かる>のに、どうしてtheがつかんの?」とか、考えちゃうんですよね。(笑
日本人としては、極楽より地獄の方が具体的なイメージがあります。むしろ、キリスト教的な heaven は仏教的な極楽というよりは、中国の道教(?)みたいに「仙人が住んでいる所」(=空の彼方 or 山の頂)であり、「目指すべきところ」という具象性&具体性が伴うのかもしれません。
一方、hell は「どうなっているかわからない所」であり、逆に「どうなっているかわかってはマズイ所」なのかもしれない、というような気がします。その点、日本人は地獄というか黄泉の国が好きですよね~(笑 国民性でしょうか?
関連して、イギリスの『指輪物語』で、"Middle-earth"ってフィールドが想像(創造?)されたのは、ちょっと面白いかもしれません。the heaven でも the earth でもない、具象性のある半神話的な世界ってかんじなのでしょうか?
そう考えると、「中つ国」という訳は、キリスト教が背景にある(?)原作とはニュアンスが変わっちゃう気もします。でも、その辺は「中つ国」という古語(?)による「異化」でカバーしてるんでしょう。どこぞの、フォント操作で「異化」したつもりになってる御仁とは格がt(以下自粛w
Gilderoy さんが例示された「in hell」のin は状況を意味し、一方、in the earth,in the heaven,in the world などの in は場所を意味するので、the が付与されるとする考え方
これは、しっくりきますね。「状況―場所」という説明は「抽象―具体(≒不可算―可算)」より、「形而上―形而下」という見方に近くていいです。
問題は、「状況」も(メタ的に)「特定可能」ってことです。他の状況と比べれば冠詞がつくはずなんですよね。そこが引っ掛かっていました。
Takaさんへ
I heard all things in the heaven and in the earth. I heard many things in hell. は前述の
Above all was the sense of hearing acute.
を説明するための「比喩」ととっていいでしょうか。文字通り天国や地獄の出来事が聞こえるというのではなく「いい事から身の周りのこと、そして悪い事まで全て敏感に聞こえた」ぐらいに考えて
翻訳というか、文脈から考えれば、「『良いこと~悪いこと』ぐらい」で十全に理解できます。
ただ、heaven と hell が出てくる時点で、「家のことから~学校のことまで」というような「現実的な機能」というレベルで―つまりは、「徹頭徹尾、形而下の空間で具象・抽象を述べている」のとは違うと感じたんです。だからこそ、「冠詞理解を深めるのに使える」と思ったんです。
この小説の内容を考えたって、ここの部分は大して重要じゃありません。日本語訳だって「適当」に済ましています。でも、せっかく英語で読んでいるし、英語で読めるんだから、「英語の感覚」を僕は「理解」したかったんです。ここを理解することで、僕は、もっと「英語の感覚」を「感じられる」ようになる――そんな気がしたんです。
受験レベルの因数分解的な構文理解、名詞構文、ネクサス……そういった「英語という言語」レベルのニュアンス。 次に、文法レベルや修辞レベルでの冠詞という「英語を使う人」レベルのニュアンス。 そして、今回の冠詞という「世界認識」を軸にする「英語圏文化」レベルでの修辞的ニュアンス。
順番に、踏んできたステップを振り返ると、この三つ目の段階で、僕はやっと英語を英語として読めるようになってきたような気がします。
英語というフレームワークの中で日本語の文化体系を使い、英語文化の小説(テクスト)を日本語文化の物語(解釈)として「感じる」のでなければ――
日本語の文化体系というフレームワークの中で英語の記号体系を使い、英語を英語として日本語文化を通して「理解している」だけなのに、英語という記号を利用するだけで英語のままに「感じている」とルサンチマンの反動形成であるかのように思い込むのでもなく――
英語というフレームワークの中で英語の文化体系を使い、英語文化の小説を英語文化の物語として、少しは「感じられる」ようになってきた――そんな気がします。もちろん、文化の違いによる小説解釈の違い自体は、それはそれで有意義に楽しめますが。
でも、コレができれば逆手にとって、日本語文化的な小説を英語文化的な物語として読むこともできます!そういった意味でも、僕は「言語」以上に世界を新鮮に解釈できるパラダイムはないと思います。だからこそ、僕は英語をやってて良かったと感じます。
それとも、文字通り、天国や地獄の出来事が敏感に聞こえると取れる可能性を暗示することで、この男がmadかもしれないことをほのめかしているのでしょうか。
これはTakaさんの物語なわけですよね?Takaさんが、ポーの小説の文間を勝手に埋めて勝手に解釈した物語です。「その根拠は?」と、問われれば「文脈」ということになりますか?これだと、トートロジーっぽい気がします。それはともかく、その文脈は、どんなパラダイムで解釈されるのですか?言葉自体は、それだけではどんな意味も持っていないんです。英語の文間を日本語で埋めてませんか?
Takaさんが解釈した二通りの可能性は「英語というフレームワークを使って日本語文化というプログラム」を組み、その結果を出力しただけでも辿り着くことができる、そんな気がします。
つまり、日本語で英語をエミュレートしている感じがするんです。僕はむしろ、そういう出力結果より、そこに辿り着く過程を知りたかったんです。ミクロな結果ではなく、マクロな仕組みであり、「英語のフレームワーク」を使って組まれた「英語文化」というプログラムをデコードしてみたかったんです。
ですから、Takaさんがどんな物語を解釈たとしても、僕には同じ次元で反論することにあまり意味を感じません。今回の僕の質問の意図は、Takaさんが辿り着いたような「解釈」への「メタ的な問いかけ」と理解してください。
だから、heavenが抽象だろうが具象だろうが、どーでもいいといえば、どーでもいいんです。Takaさんが、the heaven を一元論的に近代的なオブラートで形而下的な抽象と解釈できるのならば、僕だって無神論パラダイムで the heaven なんて形而上的な幻想とすることだってできます。
「できてしまう」んです。言語はパラダイムであり、思考プログラムのプラットフォームです。言葉という記号を使えば、一元論的な世界観も、二元論的な世界観も、どんな文脈でも、どんな意味でも扱うことができる。
だからこそ、僕らは言葉を使っているだけではないんです。言葉に使われてもいるんです。思考は言語に規定されるって言うでしょ?だから、僕は日本語という支配を捨てたいんです。代わりに英語に支配されてみたいんです。そうでなければ、僕は英語を英語として理解できない。英語という習慣によって僕の思考パターンが自動化されなければ、英語にある制度言語としてのニュアンスを僕は「感じる」ことができない。
一応、僕の解釈としては、話者は mad です。でも、もしかしたら本当に天啓を感じているのかもしれません。ホラーにみせかけたファンタジーやSFかもしれませんし、神話って可能性もあります。むしろ、マジで Men-in-Black に強襲されている自覚の無い宇宙人かもしれませんし、巻きこまれた無垢の地球人が狂乱しているだけかもしれません。(笑 スタローンも宇宙人らしいしw、「ありえない」と証明することはできませんよね。(悪魔の存在証明w
the heaven/earth は、「具体的」なのか「具象的」なのか、という問題は、「人による」と答えるしかないように思われます。読者が敬虔なクリスチャンなら、「具体という形而下での物質的な形」と「具象という形而上での観念的な形」の『ハイブリッド』を読み込むでしょう。話者の主人公―もしくはメタ的に作者のポー―がどのような同定を期待しているかは定かではありません。僕には、この作品ができた時点の文化的背景を知りませんので。
ま、小説というテクストには読者の数だけの物語が発生するのだから、そこは、それこそ個人の自由でしょうね。僕にとっては、heaven/earth/hell 全て形而上概念です。前者二つはキリスト教的な限定で同定させ、hellに意味はありません。
Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Taka 投稿日:2007/08/03(Fri) 12:43 No.3615 †
丁寧な返信いただきありがとうございました。何度も読ませていただきました。冠詞の問題は文法事項の中でも難しい項目であり、一筋縄ではいかないと常々思っています。
皆さんご存知のように、シチュエーションにちょっとした条件が加わったり、取り除かれたりで不定冠詞になったり、定冠詞になったりしますし、話者と読者が共通理解をしていると「話者が思う」かどうかも冠詞の選択を左右します。だから、冠詞の理解の仕方で、その人の根源的な英語力が分かるというのもあると感じています。そういう意味では、私の乏しい英語力、プラス、英文理解に至る貧弱な過程をGilderoyさんに見透かされてしまったようで、とても恥ずかしいです。(苦笑 これからますます勉強しなくては、と大いに反省です。
この度のGilderoyさんのご質問は私にとってもいい勉強になりました。私の中にも疑問が湧き起こって、あ~でもない、こ~でもないと暇があると考えていました。で、結局私が悩んでいたのが(Gilderoyさんのご質問とは切り離して考えてください。)
in the heaven and the earthとin hellの間に何らかの「共通点を見出せないか」ということでした。前後で対になる文ですから比較対照するもの同士には何らかの共通部分がないといけないと思ったんです。
もちろん3語とも宗教用語という共通点はありますけれど、heaven and earth ーhellのように冠詞抜きでもいいのに、なぜtheがついているのか、前の2語にtheが付く事で後のhellがどうなるのか疑問でした。
まあ、あれこれ模索して何とか共通項をみいだそうともがいていたわけなんです。結論としては、スカーッとするような、明快な解答には、まだ至っていません。theが付こうと付くまいとあまり関係ないんでしょうかね。今は、問題をフリーズして取っておくのもいいかなと思っています。
それにしても、根本的なというのか、いい問題提起ありがとうございました。これからも、勉強の場を提供してください。
Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Kiku 投稿日:2007/08/04(Sat) 11:08 No.3617 †
お久しぶりです。 皆さんの話についていくのが精一杯なので、私が書いてもいいのかと思いますが、私はk.y.さんの説明で納得しました。the heaven and the earth は神様が人間の世界として創った地球の事でhellはこの世にはない死後の世界、日常の世界とそうでないところではないかと思いました。共通項と言うとすれば現実と非現実の対比というのはどうでしょうか?
Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Taka 投稿日:2007/08/04(Sat) 17:08 No.3622 †
Kikuさんへ
早速返信頂き、ありがとうございました。実は一昨日まで私は独断的というか、表面的な解を考えていたのですが、Gilderoyさんの「英語のフレームワークの中で考える。」というアドバイスを頂き、もう一度本文を読んでみました。日本語にはないtheに注目しながら。そして、見えてきたものがあります。これも間違った解かもしれませんが書かせてください。この場合、日本語訳はあまり重要ではないと思ったので、theの有無の役割に焦点をあてて、進めさせて下さい。
結局、極論になるかもしれませんが、この二文の共通項は「俺はmadではない。」だと考えました。
heavenとearthには定冠詞theが付いています。Kikuさんが仰ったように現実世界であり、話者と読者が共通に理解できることがらです。別の言い方をすると、theを付けるのは話者が、みんなと同じだと「考えたい」証拠でもあります。
次にhellですが、もちろんKikuさんが仰るように、曖昧模糊とした非現実世界であり、話者も読者もはっきりしたものとして捉えられません。このことは、つまり、「みんなも分からないように、俺も分からない。みんなと同じだ。」と言う意味でもあると思うんです。だから、ここはtheを付けない、つまり、同定しないことがみんなと同じである証拠です。
さらに、この二文の前後は「俺はmadではない。」という主張が強くなされています。だから、ここでいきなり天国と地獄の話になってとまどったわけなんですけど。他に天国、地獄の記述がないことからも、結局、意味としての天国地獄はあまり重要ではないと思いました。重要なのは「俺もみんなと同じ。madではない。」の主張の方なんだと思いました。
いろいろ紆余曲折しましたが、今はこれで納得しています。また、ご意見ありましたらお聞かせ下さい。Gilderoyさんにはガツンと言っていただいて、よかったと思っています。
Re: hell と 冠詞 について 2 投稿者:Gilderoy 投稿日:2007/08/07(Tue) 20:30 No.3629 †
Kikuさんへ
お久しぶりです。実は、僕の質問には三つの主旨がありました。
一つ目が、このポーの文における特殊な解釈。 二つ目が、ポーの特殊事例を一般化した、冠詞の有無に関する理解。言いかえればメタ解釈。 三つ目が、二つ目をもう一度ポーの事例に特殊化し、一般化した法則との違いを考える。で、その「違い」という特殊性に普遍性を見出すことができるのか――再度、一般化することはできるのか?言いかえればメタ・メタ解釈。
Takaさんの説明は三つ目の問題への提起ですね。
共通項と言うとすれば現実と非現実の対比というのはどうでしょうか?
はい。僕もk.y.さんの解釈は好きです。kikuさんの説明でも好ましいです。ただ、僕の書き方も悪かったんですけど、このポーの文における個別の解釈については解決していると言えばしているんです。^^; ここが一つ目。
むしろ、「ここでの特殊事例を一般化すると、どうなるんだろう?」という問題を考えていました。これが「冠詞の有無の判断」であり、二つ目。
まず、Kikuさんの対比軸と他の対立軸とを比べると以下のようになります――
「現実―非現実」 「形而下―形而上」 「具体―抽象」 「意味―無意味」 「冠詞―無冠詞」
こう考えると、無冠詞(φ)で表される単語は「無意味」ということになります。つまりは、人間が感じられる4次元空間には存在していないわけです。でも、物理では11次元まで語ることができるわけです。
なら、無意味という属性を保持したままに、意味を前提としてしまう同定を行なうにはどうすればいいのか。無意味であった無冠詞の代わりに冠詞をつけてしまえば、意味が生まれてしまう。その「無意味という意味」(矛盾)を回避しながら、「無意味として無意味のまま」に語るにはどういう方法があるのか、知りたかったんです。(まぁ、個人的には、「'意味としての無意味」であれば語ることが可能だと分かりました。)――二つ目。
また、Takaさんが指摘してくださったように、「敢えて同定を期待しない」という修辞(意味)の可能性もあるわけです。――三つ目。
本来、意味に付随する恣意性は冠詞がついていることで表されなければならない。でも、冠詞がついているものとの対比を前提にすれば、「無冠詞である単語にも恣意性が生まれるのではないか」――ここも三つ目。
ポーの例でいえば、Takaさんが説明して下さったように、「madでないこと」を証明したいんです。むしろ、madじゃなくて、「ただ、acuteだ」って言いたいんです。「話者の精神状態」がここの主題であり、「acuteである」がここの主張なわけです。だからこその "above all" と倒置です。
それゆえに、the heaven/the earth - hell との対比というよりは、この2つの文は次の文のacuteにぶら下がっている。正常な人なら聞こえる全てのものどころか、正常な人なら「聞こえてはならない」ものもたくさん聞こえる。だけど、それは「madだからじゃなくて、acuteだからだ」と主張しているんです。
そして、「聞こえてはならないもの」は「決して同定されてはならない」。同定されてしまったら、mad認定されてしまう――話者だけではなく、読者さえも。
僕は、ここに「ほのめかし」を感じ「いやらしい」「共犯関係」を強いるレトリックが含まれているのではないかと思ったんです。敢えて同定しない。同定できないのだから。僕も「貴方と同じように」正常だから――そーいうニュアンスではないのか?
でも、それは本当に英語の感覚なのか、それとも日本語でエミュレートされた感覚なのか、それを知りたかったんです。
で、僕の結論としては、文法上・冠詞体系上・ポストモダン上、無冠詞は「無意味」という基点であり、「意味としての無意味」。ただ、ポストモダン上・修辞上、無冠詞は冠詞と対比されることで「恣意性のある無意味」であることができる「はずである」。と、なりました。もちろん、学術的に正しいかは知りません。ので、まだ英作では使えません。
ですので、僕はTakaさんのように、hellのような「無冠詞の特性を逆手に取った恣意的な修辞法」の存在の有無を断定はしません。(笑 これは文法の範囲外なので、修辞法の専門書なり学術書なりで確認しなければならないんですけど、僕はそんなもの持ってないんです。だから、あくまで「かもしれない」です。
Article/Euphemism/Connotation:英語冠詞の使い方を拡張する修辞法 †
冠詞による婉曲語法、もしくは共示の可能性――。ポーの"the heaven, the earth, hell"が英語にありがちな「聖書からの引用」であるのは、k.y.さんが指摘して下さったように、正しいはず。しかし、通時的に正しくとも、「なぜ、そんな引用をしたのか?」という共時的な疑問の全てに解答してくれるわけではない。そこが気になる。
英語冠詞体系をポストモダンでイメージ作業 †
- 冠詞をポストモダンの文脈でイメージする~影を捕まえろ!
- 冠詞をポストモダンの文脈で理解する物語~レトリックとしての冠詞操作術?
- 英語の感覚×日本人の英語:冠詞パラダイム論…『英語の感覚』 大津栄一郎 書評感想
- ポストモダニストなら理解できてしまう英語冠詞文法のパラダイム…aとtheの違いの意味論:認識論―英語冠詞―存在論
最近は、無冠詞を両端にして、環(∞)を描き、特異点に定冠詞と不定冠詞を二重に重ね合わせるイメージも良いって気がしてきた。不定冠詞のaは形而下へ、定冠詞のtheは形而上方向へ。固有名詞化の循環、みたいな。
- 勉強一覧:英文法英語冠詞をハートで感じる英語学習…冠詞学習系のコンテンツ一覧サイトマップ。上述のリンクも含んでます。
Comments †
その他:中級英語学習から上級英語学習までに役立ちそうなオススメ書籍(分野別紹介)